安倍晴明神社について

平安時代の陰陽師・安倍晴明公の生誕については諸説ありますが、中でも最も有力なのがこの大阪の地です。「葛之葉子別れ」の伝説では、古代豪族・阿倍氏の子孫である安倍保名は大阪市阿倍野区に生まれ、和泉国の信太明神の神使である葛之葉姫(本性は白狐)との間に生まれたのが晴明公です。

白狐であった母親を持つ晴明公は智慧の玉を譲り受け、また竜宮を訪れて竜王から秘薬を授けられるなどして、動物の言葉が聞き取れる不思議な能力を持ったといいます。成長した晴明公は陰陽道を学び、天才陰陽師として君臨しました。
安倍晴明神社に伝わる『晴明宮御社伝書』には、晴明公が亡くなったことを惜しまれた花山法皇が生誕地の阿倍野に晴明公をお祀りすることを命じ、亡くなって2年後の寛弘4年(1007)に完成したのが安倍晴明神社であると記載されています。

当神社の御祭神・安倍晴明公は、第10代崇神天皇の御代に四道将軍として国土の経営に任ぜられた大彦命(孝元天皇の第一皇子)の遠裔で、朱雀天皇の天慶7年(944年)3月辰の日の辰の刻を以て、この地に生誕し安倍童子と称されました。
後に京に上られて賀茂忠行・保憲親子に師事し、天文陰陽推算の術を修められ、村上・冷泉・円融・花山・一条の五帝に仕えて大膳大夫、天文博士、播磨守等を歴任されました。

天文を見てあらゆる事を占い、花山天皇の退位を予知し、大江山の鬼退治を指導した事は有名で、百占奇中神の如しと称せられました。
また職神(一種の精霊)を自在に駆使したといわれ、そうした説話が「今昔物語」等に記されています。子孫は土御門家を称し、代々陰陽頭となり江戸時代でも幕府で作られた暦は一旦朝廷に送られ、土御門家が暦注吉凶を加筆した上で頒布されました。

晴明公は一条天皇の寛弘2年(1005年)9月26日に亡くなり、2年後の寛弘4年(1007年)に、これを惜しんだ花山法皇によって阿倍野の地に安倍晴明神社が創建されたと伝わります。

現在、安倍晴明神社の御本社に当たる阿倍王子神社は仁徳天皇の御創建とされ、一説に古代豪族阿倍氏の創建と伝わります。

古代豪族阿倍氏は孝元天皇の第一皇子・大彦命を始祖とし、朝廷の重鎮として活躍しました。
外交や軍事を担当することが多く、大阪の阿倍野は住吉大社や四天王寺にも近く、彼らが中国大陸・朝鮮半島情勢に対応するための要所であったと考えられます。

飛鳥時代、大化の改新で都が大阪の難波宮に遷されると左大臣・阿倍倉梯麻呂は孝徳天皇の外戚として重用されます。孝徳天皇は外戚・阿倍氏の地盤である阿倍野に近いことに考慮して、難波に遷都したと考えることもできます。

平安初期、阿倍氏は「安倍氏」と表記を変えました。この頃活躍した安倍兄雄は晴明公のご先祖にあたり、平城天皇・嵯峨天皇の母方の祖母が阿倍氏である関係で栄達しました。
やがて藤原氏が朝廷の中枢を占め、安倍氏も衰退しますが、晴明公が登場して再興することになります。

阿倍王子神社は古記録には「阿倍社(あべのやしろ)」と表記され、本拠地とした阿倍氏の氏神であったと考えられます。この一族から安倍晴明公が出世して、花山法皇により安倍晴明神社が創建されて、晴明公は故郷に錦を飾ることになるのです。

江戸時代、安倍晴明公のご子孫である土御門家は晴明公の聖地を7カ所定めています。

宝暦4年(1754)の晴明公七百五十年祭に際して示された「晴明霊社旧地之次第」には

  1. ① 奈良県の安倍文珠院
  2. ② 大阪市の安倍晴明神社
  3. ③ 福井県の天社土御門神道本庁
  4. ④ 大阪府和泉市の信太明神
  5. ⑤ 京都市の晴明神社
  6. ⑥ 京都市(嵯峨)の晴明公御墓所
  7. ⑦ 京都市東山区の遺迎院(ゆいごういん)

以上の7カ所が記されています。①は安倍家の発祥地、②は晴明公の御生誕地、③は戦国時代の安倍家の疎開地、④は晴明公の母君・葛之葉姫ゆかりの地、⑤は晴明公の御屋敷跡、⑥と⑦は晴明公の御墓所となります。
「第二之旧跡也」と定められた大阪の安倍晴明神社。
明治新政府によって陰陽道が禁止されましたが、70年余り後の昭和17年4月に土御門神道同門会が結成され、土御門神道の復興活動がなされました。
終戦後の昭和21年5月「天社土御門神道本庁」としてついに再興が叶います。この活動に阿倍王子神社宮司の長谷川茂も尽力し、設立当時の3名の主管者の1人として名を連ねています。
現在、阿倍王子神社には天社土御門神道本庁が発行した「昭和22年本暦」が保管されています。古くから造暦を行ってきた土御門家。この本暦は再出発の象徴ともいえるものでしょう。
阿倍王子神社・安倍晴明神社で頒布している本暦は、現在も天社土御門神道本庁が発行しています。

安倍晴明神社は、境内約180坪(約600平米)ほどの小さなお宮ですが、境内全体に大阪市の保存樹林が植えられています。
また当神社は、阿倍王子神社の境外末社に当たります。授与所不在の場合は南に50mに鎮座する阿倍王子神社にて御朱印や授与品の頒布を行います。(葛之葉狐おみくじは除く)ご祈祷も阿倍王子神社のみの奉仕となります。

手水舎の龍神さま

安倍晴明公は天慶7年(944)3月辰の日の辰の刻にお生まれになったと伝わります。
「辰」という干支にゆかりがあるのでしょうか。藤原道長が記した『御堂関白記』には寛弘元年(1004)7月に日照りで皆が苦しんでいる最中に、龍神様をお祀りする祭典(五龍祭)を行ない、大雨を降らせたという記録が残ります。

泰名稲荷神社

朱色の鳥居が鮮やかなこのお社は江戸時代からお祀りされています。

安倍晴明公の伝説上の父親・安倍保名の名を冠しています。
保名は文楽「蘆屋道満大内鑑」の主人公です。物語で保名は色男として描かれ「葛の葉子別れの段」で愛する妻の正体が一匹の狐とわかっても以下のセリフを発します。

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「たとえ野干の身なりとも、物の哀れを知ればこそ五年六年付きまとい、命の恩を報ぜずや、いわんや子までもうけし仲。狐を妻と持ったりと笑う人は笑いもせよ。われはちっとも恥しからず。別るると相対にて互いに合点のその上は、失せもせよ消えもせよ、このままにてはいつ迄も、放ちはやらじ、ヤア葛之葉。童が母よ女房よ。」
この心意気、妻子に対する情愛の深さ、安倍保名は文楽の世界のスーパースターでした。

なお、「保名」を「泰名」としたのは晴明公のご子孫・土御門家の人々が「晴」の字の他に「泰」の字も通字に用いていたことに考慮したと考えています。

安倍晴明誕生地の碑

安倍晴明神社の境内には江戸時代に神南辺大道心が寄進した石碑が残っています。
そして、この人が各地に石碑を建てた経緯が『住吉区史』に記されています。

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「神南辺道心は奈良県王寺町神南の生まれで、俗名弥助、燗鍋作りにかけては腕の立つ職人であった。しかし素行が修まらず、人から嫌われていた。息子は小さいときから寺の小僧にやられていたが、子供からその不行跡をたしなめられて改心、一念発起して仏門に入り、燗鍋作りから「神南辺」と改め諸国を行脚、人に役立つようにと、道標・百度石の建立や架橋までした。堺市には、神南辺橋・神南辺町などが残っている。天保12年(1841)堺で没した。」

贖罪のため、あちこちに道標や石碑を建てて廻った神南辺大道心。文政年間に建立した「安倍晴明誕生地」の碑は今もその功績を伝えます。

鎮石 (孕み石)

安倍晴明神社境内の鎮石(しずみいし)。

孕み石(はらみいし)とも称し、安産にご利益があると伝わります。

その昔、藤原実資(さねすけ)の女房のお産に際して、安倍晴明公が解除(げじょ)、すなわち罪穢れを祓い、産所に侵入する祟りを封じる呪術をおこなったことが『小右記』に記されています。
安産は、安倍晴明神社のご神徳の1つです。

安倍晴明公産湯井の跡

安倍晴明公がご生誕になったときの産湯の井戸。
江戸時代の『摂津名所図会大成』には、安倍晴明神社境内にこの井戸が描かれています。
現在、井戸の位置は手水舎横に変わりましたが、今もなおコンコンと水が湧いており、手水舎の水として使用されています。
古来、真清水は神として祀られ、当社でもこの井戸の水は「晴明水」と呼ばれ、地域の人々に大切にされています。

葛之葉霊狐の飛来像

「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉」

皆さんは葛の葉子別れ伝説をご存じでしょうか。

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安倍晴明公の父君・保名は安倍家再興の祈願のため和泉国の信太明神にお参りします。
そこで狩りから逃れてきた一匹の狐を助けてやりました。追手との戦いで大怪我をした保名の前に葛の葉と名乗る女性が現れ、保名の介抱をします。
二人はやがて阿倍野の里で夫婦となり、かわいい男の子も生まれました。

数年後のある秋の日。葛の葉は庭先に咲く菊の色香にしばしまどろんで狐の本性が出てしまいます。
「お母さま怖い」
子どもに正体を見られてしまった葛の葉は、保名が止めるのも聞かず
「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉」
と和歌を一首障子に書きつけて信太の森に帰っていきました。
泣き止まない子どもを連れて保名は信太の森へと向かいます。
現れた狐の姿の葛の葉から、正体を見破られた以上同じ世界に住めないのが掟だが、かわいい息子には宝物の知恵の玉を授けるので勉学に励んで安倍家を再興し、世の中の役に立って欲しいと言い残して姿を消してしまいました。
男の子は成長して安倍晴明と名乗り、陰陽師として平安の都で数々の伝説を残しました。

このお話は江戸時代に文楽や歌舞伎となって上演され、人々の涙を誘いました。
安倍晴明神社は御祭神・安倍晴明公がご生誕になった聖地です。
皆さんも静かな境内で語り継がれてきた葛の葉子別れ伝説に思いを馳せてみてください。