仮名草子
安倍晴明物語

江戸時代に浅井了意が著作したと伝わる仮名草子です。安倍晴明公にまつわる様々な伝説が収録されており、ここでは阿倍王子神社が所蔵する『安倍晴明物語』から5枚の絵とそれぞれのお話をご紹介します。

安倍童子、竜宮城へ行く

安倍童子が住吉にお参りした際に小さい蛇が子供達にいじめられているのを助けてやった。童子が阿倍野に帰ると美しい女性が一人現れて、竜宮の乙姫と名乗る。先程の蛇は乙姫が化身したもので、助けられたお礼をしたいから乙姫が住んでいるところに来て欲しい、と童子は言われた。

乙姫が童子を連れて一町ばかり行ったかと思うと、一つの大きな門に至る。それは大層立派な宮殿で、その四方には四季の有様が展開されていた。東の方は春の空、南の方は夏の木立。西の方は秋風が吹く野原、北の方は吹きすさむ嵐。ここには四季折々の美しさが表現されているのであった。
宮殿の庭には金銀の砂を敷き、垣には鼈甲(べっこう)を飾り、そして楼閣は七宝で飾られていた。童子は殿内で歓待を受け、様々な秘薬や珍味でもてなされる。宴が終わると、竜王自ら金の箱と七宝の箱を取り出し、童子は竜王の秘符、それに鳥や動物の言葉がわかる薬を授かった。

竜宮で夢のような歓迎をされた後、童子は乙姫に送り出されて大きな門から再び一町ばかり歩くと、阿倍野の近くに帰ってくることができた。

安倍童子、烏から話を聞き帝の病気を治す

村上天皇の御代に内裏が焼けてしまったので、翌年に昔を超える出来栄えで再建された。そのころ安倍童子が天王寺にお参りして、本堂の軒で休んでいたところへ西と東から二羽の烏が来て、堂の上に止まった。童子は竜宮の秘薬のおかげで、二羽の烏から帝がご病気になり、あらゆる治療や加持祈祷を行なっても効き目がない、そして烏が知り得る原因を取り除かない限りこの祟りは解決しないことを聞き取った。

童子は阿倍野に帰って占いをしてみると、烏の言葉と同じ結果だった。そこで都に上って公卿の出した課題を見事に解き、皆の信用を得る。童子は「御殿の丑寅の方角の柱の礎の下に、蛇と蛙が生きたまま閉じ込められている。蛇は蛙を飲み込もうとし、蛙は蛇に飲まれまいと戦っている。その怒りが天に昇り、帝のお悩みとなっているので掘り出してしまえばよい。」と進言した。それならといって、掘ってみるとまさにその通りで、帝も快復されたので皆は感嘆した。

まもなく童子の昇殿が許され、五位に任じられ陰陽頭となる。その日は三月の節(二十四節気の清明)であったので、この日を名に賜って安倍晴明と名乗った。

安倍晴明と道満法師の対決

播磨国の道満法師は、我こそ天下に並ぶものなき知恵の持ち主と自負していた。ところが都に名高い占い師が現れて、安倍晴明と名乗り帝の寵愛を受けていると知り、どちらが天下の名人か腕比べをしようと都に上ってきた。二人は禁中の南殿のお庭の前で対決することとなり、帝や殿上人、地下の衛府・諸司なども見物することになった。

道満が多くの小石を空に投げ上げると燕となって飛んだ。皆が感心しているところへ晴明が扇で一つたたけば今度は数十羽の燕が一同に地に落ちて元の小石となる。次に晴明が陽明門の方に向かって念じると、大きな竜が現れて雨を降らせたので庭にいた人々はびしょ濡れになった。道満がさまざま行なうが雨は止まない。雨は庭の人々の腰まで達した。晴明が何やら唱えたら雨は上がり、びしょ濡れだった人々は少しも濡れたところがない。

最後に長櫃の中に入っているものを占いで当てることとなった。大柑子十五個が入っているのだが、道満は占いですぐに当てる。一方晴明は祈祷をして中身を入れ替え、ねずみ十五匹と答えた。晴明が占いを仕損じたと人々は顔色を失う。しかし蓋を開くと中からねずみ十五匹が駆け出して、四方八方に逃げて行った。大柑子は一個もない。人々は晴明の知恵に感心したのだった。

安倍晴明、人形を用いて鬼女を防ぐ

五条の辺りに住んでいた人が若い女と夫婦の契りを結び、元の妻を捨てようとした。元の妻はこれを妬み、腹を立てて生きながら鬼となり憎い男と今の妻を殺そうと考えた。毎晩、貴船明神に丑の刻参りを行ない二十一日目の夜、神託が下った。鬼になる方法を教わった女は身支度し、夜更けに貴船の方へ走り出したところ、その恐ろしい姿を見た人は肝をつぶして死んでしまった。貴船川に七日間浸かった女は生きながら鬼となった。

女の元夫は噂を聞いて、安倍晴明のところへ助けを求める。このままでは男の命は今夜限りと判断した晴明は、男の身代わりとなる人形をその人と同じ背丈で作り、祭壇を設けて大小の神祇、冥道、五大明王、九曜、七星、二十八宿に誠意を尽くして祈った。やがて雨が降り、稲光がして、風が強く吹いて、祭壇が鳴動する。鬼女の姿が現れて男の身代わりの人形に襲いかかろうとするが、明王の縛にかけられて苦しみだした。もう来ないと言って、鬼の姿は消え去った。男の命は助かったのである。

安倍晴明、星を見て花山天皇の出家を知る

花山天皇は冷泉院第一の皇子として天子の御位につき、弘徽殿の女御をご寵愛なさったが、ほどなく亡くなってしまわれたので帝の嘆きようはこの上もなかった。
帝が、この世の中のすべてを心細く、思いが乱れていらっしゃる際に、粟田の関白(藤原道兼)が殿上人であった時にお持ちの扇に妻子珍宝及王位臨命終時不随者(さいしちんぽうきゅうおういりんみょうしゅうじふずいしゃ)という心地観経の文を書いたのを帝がご覧になり、発心されて寛和2年に厳久法師と藤原道兼のただ二人を連れて内裏を抜け出し、御年十九で、花山院で髪を下ろし法号を入覚と称された。

花山法皇は五機内の霊仏霊地を巡拝され、紀州の那智で三年間修業され、不思議な現象があったので都に帰り、花山寺に入って真言灌頂を開き、寛弘5年に四十一歳で崩御された。天子の御位に就いたのは、わずか二年の間だった。
帝がご出家になる晩、安倍晴明の館の前をお通りになるとき、晴明は端近くに出て涼んでいたが、「帝座の星が急に座を移した。これは天子が御位を去られた印である。これは、そもそもどういうことであろうか。」と驚く声を帝は物越しにお聞きになり、足早にお過ぎになった。晴明は急いで参内し、このことを告げたところ、人々は驚いて帝をお探ししたが、見つけることができなかった。このように、晴明は天文の道理に通達していたのである。